快調談話室

小話「オリンピックとSMAP」


へ〜ご隠居さん、お久しぶりで
「お〜 与太郎じゃね〜か 元気にしてたか? ま〜 はinねぇ〜か」
へ〜 ご隠居さん ありがとうごぜ〜やす。 

「与太郎、少し目が赤けーな〜 どうしてだい?」
へ〜 毎夜オリンピック観戦してましてぇ〜すっかり寝不足で…
「そっうっか〜 今回の日本はよく頑張ったな〜 メダル数獲得も史上最高だってね。」
へ〜 水泳・体操、卓球・バトミントンや400mリレー など、みんなで戦う競技にはたくさんの感動の場面を魅せられやした。
「そうじゃな個人技以外でも、みんなで力を合わせれば夢も叶えられるつうことだな」

へ〜   ところでご隠居さん あのボルトつう人はどうしてあんなに速え〜んです?
「それはな、よく聞くのだよ、与太郎は今まで、行動する前にあきらめて、じゃ〜 まぁ〜 いいか… って、何事も簡単に諦めてたことは無いかい? でもボルトは小さいころから違っていた。「世界一になるのだっ!」ってがんばったんだよ。 だから教訓として“ジャ〜 マァ〜 イイカ〜”とあきらめず、発奮すれば人間には素晴らしい力が秘めてあるのに気づいた人達は多いはずだ。これを「ジャ・マ〜・イイカ精神」と言うのだ。
日本のケンブリッジ君もボルトと同じ1/2は”ジャマイカ”の血が入っているんだよ。」

へ〜ご隠居さん、力を合わせれば夢がかなうのだったら、スマップ達、キムタク君も、もう1度力を合わせて「世界に一つだけの花」になって欲しナ〜。  そうしないと歌詞を変えねばなりませんよ〜。

「そうだな〜 与太郎 このまま解散なら
♪小さい花や大きな花 一つとして同じものはないが 隣の花は赤く見栄える ナンバーワンにならなくてもいい 元々特別なロンリーワン ♪
ってな詩に書き換えないとね。」

へ〜そういえば、以前、おぼちゃんも「SMAP細胞分裂ありま〜〜す」って予言したましたよ。
こんな詩の歌は嫌ですよね。
「なら、与太郎はどんな歌詞に変えるのだい」

へ〜あっしなら ♪ナンバーワンでなくて良いから 5人の力を合わせて オールインワン ♪
ってなとこで如何でSHOW?

「ほほう、中々上手いもんだな〜 ああっ、それと閉会式に安倍さん、小池さんもがんばってたな・・
与太郎、また、時々いらっしゃい。」

おあとがよろしいようで           夏場亭 涼
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 チャップリン『独裁者』 スピーチ 


私の声が聞こえる人達に言う、「絶望してはいけない」。

私たちに覆いかぶさっている不幸は、単に過ぎ去る欲であり、人間の進歩を恐れる者の嫌悪なのだ。憎しみは消え去り、独裁者たちは死に絶え、人々から奪いとられた権力は、人々のもとに返されるだろう。決して人間が永遠には生きることがないように、自由も滅びることもない。

兵士たちよ。獣たちに身を託してはいけない。君たちを見下し、奴隷にし、人生を操る者たちは、君たちが何をし、何を考え、何を感じるかを指図し、そして、君たちを仕込み、食べ物を制限する者たちは、君たちを家畜として、単なるコマとして扱うのだ。そんな自然に反する者たち、機械のマインド、機械の心を持った機械人間たちに、身を託してはいけない。君たちは機械じゃない。君たちは家畜じゃない。君たちは人間だ。君たちは心に人類愛を持った人間だ。憎んではいけない。愛されない者だけが憎むのだ。愛されず、自然に反する者だけだ。
兵士よ。奴隷を作るために闘うな。自由のために闘え。『ルカによる福音書』の17章に、「神の国は人間の中にある」と書かれている。一人の人間ではなく、一部の人間でもなく、全ての人間の中なのだ。君たちの中になんだ。
君たち、人々は、機械を作り上げる力、幸福を作り上げる力があるんだ。
君たち、人々は人生を自由に、美しいものに、この人生を素晴らしい冒険にする力を持っているんだ。だから、民主国家の名のもとに、その力を使おうではないか。 
皆でひとつになろう。 新しい世界のために、皆が雇用の機会を与えられる、君たちが未来を与えられる、老後に安定を与えてくれる、常識のある世界のために闘おう。そんな約束をしながら獣たちも権力を伸ばしてきたが、奴らを嘘をつく。約束を果たさない。これからも果たしはしないだろう。

独裁者たちは自分たちを自由し、人々を奴隷にする。今こそ、約束を実現させるために闘おう。世界を自由にするために、国境のバリアを失くすために、憎しみと耐え切れない苦しみと一緒に貪欲を失くすために闘おう。
理性のある世界のために、科学と進歩が全人類の幸福へと導いてくれる世界のために闘おう。

兵士たちよ。民主国家の名のもとに、皆でひとつになろう。
END
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 映画チャップリン『独裁者』(1940) スピーチ 


申し訳ないが、私は皇帝などなりたくない。それは私には関わりのないことだ。誰も支配も征服もしたくない。できれることなら皆を助けたい、ユダヤ人も、ユダヤ人以外も、黒人も、白人も。私たちは皆、助け合いたいのだ。人間とはそういうものなんだ。私たちは皆、他人の不幸ではなく、お互いの幸福と寄り添って生きたいのだ。私たちは憎み合ったり、見下し合ったりなどしたくないのだ。この世界には、全人類が暮らせるだけの場所があり、大地は豊かで、皆に恵みを与えてくれる。 人生の生き方は自由で美しい。しかし、私たちは生き方を見失ってしまったのだ。欲が人の魂を毒し、憎しみと共に世界を閉鎖し、不幸、惨劇へと私たちを行進させた。私たちはスピードを開発したが、それによって自分自身を孤立させた。ゆとりを与えてくれる機械により、貧困を作り上げた。知識は私たちを皮肉にし、知恵は私たちを冷たく、薄情にした。私たちは考え過ぎで、感じなく過ぎる。機械よりも、私たちには人類愛が必要なのだ。賢さよりも、優しさや思いやりが必要なのだ。そういう感情なしには、世の中は暴力で満ち、全てが失われてしまう。飛行機やラジオが私たちの距離を縮めてくれた。そんな発明の本質は人間の良心に呼びかけ、世界がひとつになることを呼びかける。今も、私の声は世界中の何百万人もの人々のもとに、絶望した男性達、女性達、子供達、罪のない人達を拷問し、投獄する組織の犠牲者のもとに届いている。     
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 戦後生まれの私の終戦(最終回)


 今回8月6日広島原爆投下の日からはじめた「戦後生まれの私の終戦」シリーズ、その3日後の9日は長崎に原爆が落とされた日です。爆心地近くの平和公園では長崎市長もオバマ大統領の行動を評価し「今こそ持てる限りの英知の結集を」と核廃絶に向け各国のリーダーに被爆地への訪問を呼びかけました。
間もなく8月15日 終戦日です。
くしくも、8日15時から天皇陛下自らのお気持ちの表明があった。お気持ちの題は「象徴としてのお務めについての天皇陛下お言葉」であった。象徴天皇の務めが途切れることなく安定的に続くことを念じるとしたお言葉は国民へ十分に理解が得られるものとおもわれます。

終戦記念にあたり「戦後生まれの筆者にも、終わることのなかった終戦の傷跡」を9回に分けて書き下ろしてみましたが、未だまだ話は尽きません。
先の戦争であまりにも多くの犠牲と尊い命や不幸と教訓を背負ってしまった私達、これらのことを後世や、次代を担う子供達に十分に伝えられず老いてゆこうとしている私達。
筆者には天下、国家を語る能力も、戦争について論ずる概念や国際法上とか軍事上のバランスやその観点など、知識も何もありませんが、結果的に一般国民が巻き込まれ犠牲になってきた事は事実です。また、今日まで71年間戦争をしなかったことを当たり前と思っていた筆者でしたが、このままでは日本は戦争をしない国としてギネスに登録されそうな程、世界情勢は悪化しています。近隣国にはジャイアン(脚注:まんがどらえもんに出てくる自己中で大変乱暴なガキ大将「オマエのものはオレさまのもの、オレさまのものもオレさまのもの」という迷言から「ジャイアニズム」という言葉が生まれた)もあり、日本は今やノビタ君状態となりました。平和な日々を得るには弛まぬ努力が必要です。
 私は表現が下手なので、映画チャップリン『独裁者』を観て感動した最後の場面でチャップリン自ら書いた6分間の最高のスピーチを紹介し、おわりとします。 最後までお付き合い頂きありがとうございました。

【写真】 ■昭和21年そごう前三宮ジャンジャン市場51棟の食物屋が出現、芋などの代用食を格安で人々の空腹を満たした。 ■ 現在の高浜(ハーバーランド)
2016年08月10日(水) No.571 (快調::一般)
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─/生預膓襲の下で


 実は子供の頃、母親からよく聴かされた戦時中の思い出話のひとつにその当時では?と思われる場面があります。それはアメリカ軍のB-29から落とされた焼夷弾が上空で炸裂し神戸の街が次第に火の海になっっていく神戸大空襲の話です。
「空襲警報があり、子供達に防空頭巾を被せ、六甲山山麓にある防空壕に身を寄せながら、上空で行われている空中戦を恐るおそる見ている時、一機の米軍機が日本側に撃墜され、バラバラっとパラシュートが開き脱出して行く米兵があり、見ていたまわりの民衆からは一斉に拍手が巻き起こった。しかし自分にはそれはできなかった」と話していた今は亡き母。この精神、今なら非国民として特高警察にマークされそうな話である。なので当時は母が密かに心の中に感じたことだったのであろう。
 子供の頃より母から洋書や洋画を聴かされ見せられて大きくなった同じDNAの筆者には心中察することが出来そうだ。 まっ、拍手した民衆も開いたパラシュートを見てパイロットが無事助かった時の歓びの拍手であった。としておこう。

 これらの凄まじい時代と伴に過ごしてきた御影公会堂は建築後60年が経過して老朽化が進んだので正面玄関部分は残して、北側は壊し、建替える計画があった頃、すなわち1995年1月17日午前5時46分、神戸を震度7の地震が襲った。阪神淡路大震災でした。
近くのJR六甲道駅は崩れ、阪神高速は倒れるという未曾有の災害の中、「半永久」の思想のもと建てられたこの公会堂の構造は、皮肉にも戦災の時と変わらぬ姿で立ち続けた、いわば2回の大きな災難を乗り越えれた訳です。
部屋のひとつは遺体安置所に充てられ、避難所としてピーク時は約400名にもおよんだ。復興も順調に進み、その年の12月には役目を終えることになり、その後、以前と変わらぬ用途で今も使用されています。


【写真】 左 神戸大空襲 神戸市内中心部 中央 多聞通り 右 空襲下、必死でバケツリレーで消火活動する市民。防空頭巾に注目 元町通2丁目付近 
■昭和19年12月 B29の偵察飛来で市民に恐怖を与え、翌20年3/17夜約300機なるB29に因る爆撃で中心部が5/11東灘6/5東部と須磨一帯が焼失。これで敗戦までに受けた爆撃回数128回 死者8841人 負傷1万8千人以上に及んだ。
                      資料:神戸市制100年誌より 
2016年08月08日(月) No.570 (快調::一般)
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А 慍仗發襪諒茵戮良饌罎箸覆辰薪貎生


 そんな少年時代もやがて終わりを告げ、社会人となったとある日、兄姉から昨年亡くなった野坂明如さんの阪神間を舞台に『火垂るの墓』を書いた、直木賞受賞作品を手渡され読むことがあった。
この作品はその後、スタジオジブリによるアニメ映画化となり、一般的になったが、その中に出てくる神戸の街の場面は、上述した中学時代、戦争があった時代背景も何も考えずに走り回って遊んでいた場所、深田池や御影公会堂、灘五郷周辺が作品の随所に出て来るから驚いた。(脚注:ただ、筆者が作品の中に出て来るのが「深田池」と思い込んでいたが実際の場所は主人公清太が一時的に身を寄せた親類の家があったニテコ池周辺であった)
 殊に文中の「御影公会堂」は文献によると1933年(昭和8年)に建設され、設計者は神戸ゆかりの建築家清水栄二氏が様式建築からモダニズムへの過渡期であった為、戦後のモダニズムでも、 戦前の様式建築でもない当時の独特な雰囲気がする船をモチーフにした建築物と言われ、現在も市民の集いの場として、昔のまま残り、使用されている。 アニメ作品の中にも、焼け野原にぽつんと建つこの公会堂の1カットシーンも印象的に出てきます。
この公会堂は1945年5月11日の空襲で爆弾が国道2号線と隣接の石屋川に落ち、つづいて同年6月5日の空襲で、内側にも火は入り、外壁と一階南側の3部屋、そして地下食堂を残して全焼したようです。 当時公会堂のある石屋川沿いに並んでいた酒蔵群も焼け落ち、西の西灘から南の阪神電車の高架まで、わずかな鉄筋の建物のほかにはなにも残っていなかったことが、あのアニメのシーンとなった訳です。

【写真】■戦時下の神戸が舞台となった本『火垂るの墓』の表紙  ■右側の池は小説の中で兄清太と妹、節子が過ごした西宮満池谷横穴防空壕付近にあるとされるニテコ池 左は筆者が通った深田池 昭和時代は遊用貸しボートがあった。
2016年08月08日(月) No.569 (快調::一般)
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 Α\鏝綫犬泙譴了笋僚戦(やがて中学生に)


 少し歳月は流れ中学生になった頃(1960年前後)であった。教室で休み時間、後席の友に、「放課後自転車に乗って深田池に行こう」と、学校近くの遊ボートが浮かぶ池によく遊びに行った。その道中には古いながらも格調の高い洋風建築の建物、御影公会堂というのがあった。
 私の育った神戸は横に細く長い街で、住まいはその中でも東寄りに位置した東灘地区で、北側には六甲山を配し、南側には酒づくりの蔵が並ぶ、灘五郷(なだごごう)がある。「灘の生一本」で知られる日本酒の一大生産地。酒造りに適した兵庫県産の酒米「山田錦」に加え、六甲山の花崗岩(御影石)でろ過された上質のミネラル水から成り立った日本酒は水上輸送にも便利な港が隣接していることから全国配送が可能で古くから日本酒の名産地として栄えた。それが灘ごごうである。
 我が中学校近くにはカナディアンアカデミースクールという前述の軍用バスに乗っていたであろう青い目の金髪のお人形さんの様な外国の子弟が通う学校があり、小さい頃から日常風景に溶け込んでいるエキゾチックな、神戸の風景であり、彼らの学校へ行き、何のためらいも無く遊ぶことができた。
 ある日、彼らは自慢しようとしたのか、親の物であろうライフル銃などを持ち出してきて、こちらに銃口を向けておちょけてみせる。当時の私達にとってはそれは恐ろしいことであり、恐怖のあまり、教壇の下に隠れたりした。こうして子供同士の遊びの対話には英語力も日本語力も必要ない。喋れなくても会話は十分成立していた。 余談だが、あれから60年も経ったというのに未だ英語が話せないのは何故なのだろう?(笑)
 これらの街は学校に遅刻した冬の朝なに罰として「グランド〇周!」と先生から言われ、六甲おろしが吹き荒れる校庭を走る時に眼下に見ることが出来る、坂の多いのが特徴の神戸の街である。

【写真】 ■御影公会堂(震災後も集会所と利用され地下食堂のオムライスは人気、現在耐震改修工事中  ■神戸市街図 ビーナスブリッジより望む、前方の中段の島がポートアイランドとその沖は神戸空港
2016年08月08日(月) No.568 (快調::一般)
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ァ\鏝綫犬泙譴了笋僚戦(戦争の傷跡)


 この坂道を国防色の米軍バスが子供たちを乗せ上って行く。後部座席の窓から子供達が青い目で道路で遊ぶ私たちの姿を興味深げに追っている。それを目ざとく見つけたガキっ子達は自分の鼻の上に両手を合わせからかいのポーズ。この合図の意味は「鼻の高い変な奴!」ってことなんだろう。バス上の子供達も負けてはいない「イ〜ダ!ベロベロバ〜」とばかりジェスチャーで応戦してくる。このバスは都心のJR三ノ宮から六甲山麓にある外国人専用学校か将校用住宅六甲ハイツへの送迎をしていたのだろうか。
つぎに方角を変えて、自宅から西方面にある阪急電鉄王子公園駅方面へ歩いて行くと、道路傍に防空壕があった。それは地下鉄への入口の様な恰好をしていて、その中から、現在で言うホームレス風の人が顔を出していた。恐らく住いしていたのだろう。よく記憶していないが奥行は浅い感じであった。時代が進むにつれ、このような場所も次第に消えて行った。
 時折、親から食品(塩・砂糖・パンなど)の買物を頼まれることがあった。その時はお金に添えて、電車回数券に似た印紙の様な短冊を持たされた。これが物資不足の折、一般の庶民に生活必需品等が行き渡るよう考えられた当時の配給切符だった。家のラジオからは米軍放送が朝から晩まで流れていた。
この様にして戦中戦後の名残りは幼い生活の中にも感じられていた。
 外で遊べない雨の日に読む書物の中に、夢中になって読んだ本がある。岩波書房の『原爆の子』昭和26年10月発行 ¥190 今では【写真】のように黄ばんでいるが繰り返し読んだ。これは「原子爆弾の恐るべき破壊力を経験した少年少女千余名の手記から厳選された記録集」で当時の自分の年齢に近いお兄さんやお姉さんが書いた被爆当時の体験日記であった。
 読んで行くにつれ、大人と違い、その悲惨さを受け止めるには幼すぎた。内容は余りにショックであり、その行きどおりを消化してゆく方法が解らず、何故か、読後ただひたすらお絵かき帳に悲惨な情景を想像し、繰り返し落書きをした記憶がある。

【写真】 ■本:原爆の子 表紙  ■神戸駅前の約10haが接収されカマボコ型の兵舎が建てられた。イーストキャンプはそごう南30ha 焼け跡をキャンプ領地に接収して鉄条網をはりめぐらせ、焼残りの大邸宅のほとんどは接収、六甲ハイツには将校家族住宅、学校が新築されました。 ■緊急着陸用として六甲から石屋川に至る現山手幹線が飛行機の滑走路に使用された。 資料:神戸市100年記念誌より
2016年08月07日(日) No.567 (快調::一般)
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ぁ\鏝綫犬泙譴了笋僚戦(スタンドバイミー)


これは小学生になるまでの記憶である。
神戸の街は坂が多い、六甲山がある山側が北側、南側は海に面しているため、神戸市民は道案内や表現にも、「うえ(上)にあがる」とか下へ行く」などと表現する人が多い。
自宅前の坂道を北方面へ上って行くと河内国魂神社(かわちのくにたまじんじゃ)という神社があり、私達は通称、五毛天神(ごもうてんじん)と呼んでいる。お祭りの時にはだんじりが出て、道の両側に出店が並び、夜店では裸電灯が輝き、蛾など虫が入り乱れ飛び交い、浴衣を着た子供たちであふれる楽しいものであった。そんな坂道のど真ん中に大きな丸い直径2〜3mのコンクリートで補修された場所があった。その両脇に立ち並ぶ建物の壁にはブリキの波トタン壁には無数の穴があいていた。
これは戦時中の空襲で爆弾が落ちたさく裂時の衝撃痕だったのである。
さらに神社を越え山へ向かってゆくと、洞窟があった。当時子供の間ではそこに入ると迷路になっていて、出て来れなくなるので、入るには長いロープを持って行く必要があると、噂をし合った。正に映画スタンドバイミーな場所でした。この場所はきっとあとに述べる母たちが山麓に避難したという防空壕跡だったのだろうか。
ある日、この坂道で子供の目から視える大きな事件があった。それは坂に停めてある駐留軍のジープにマンガ『ドラえもん』に出て来るジャイアンなど、ガキどもが数人乗って遊んでいたら、突然車は動きはじめ坂を転がり出して大騒ぎ。途中で大人が飛び乗りやっと停止した。恐らくサイドブレーキに触れ、解除された事故であったのだろうが、その後、車に戻った将校は部隊に戻ってどうなったか、日本人の子供の親は?と興味があるのだが、今は遠い夢の幻。これもスタンドバイミーの世界であった。
2016年08月07日(日) No.566 (快調::一般)
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 戦後生まれの私の終戦(日本の憲法)


 筆者が思うに、現行の日本の平和憲法が地球上の全ての国が守るべく世界標準とする共通憲法であるなら、もしくは近隣の国々が同様の憲法を保持しているのなら良いが、現在はそれぞれの国の大きな違い、すなわち国力、政治体制、憲法、制度、民度等の違いに加え憎しみと憎悪が消えさらない限り、わが国のみこの平和憲法を守り続ける努力は必要であるが、不安の要素が多すぎる。日本は核廃絶を唱えながら、米国に核の傘の下に依存しながら平和に浸っている姿はもう許されない構図であろう。
そろそろ戸締りはきちんとし、列車の中の居眠りをつつしみ、自分の身は自分で守って行く気概を持つことを真剣に考えねばならない時代が来ていると考える。

1945年(昭和20年)8月15日に昭和天皇によって降伏を宣言した日と、前述しました。
そのあと、時間を置くことなくマッカーサー率いるGHQの指導のもとで日本国憲法が草案され、1946年(昭和21年)の「11月3日」に公布、1947年(昭和22年)の「5月3日」に施行となった。
以上、この【北朝鮮ミサイル】・【広島原爆の日】・【オリンピック】という3っつのタイトルに共通して言えることは全て、人類の平和と進歩の為の関連記事であり、目的や処理など、その方向性についてはけっして間違ってはいないのだろう。そこに至るプロセスはそれぞれの読者の考え方でもあり、違っていて当然なので、ここでは省略する。私はこの憲法発布の頃に産声をあげた。従って戦後生まれの、戦争を知らない世代であると書きたいところだが、意外とそうでもなかった。

【写真】■昭和20年8月25日 連合軍が神戸に進駐 アメリカ兵はカーキ色の軍服で肩には自動小銃で神戸大丸前を行進 資料:こうべ市政100年記念誌より 【写真】 現在の夜景 新港からメリケン波止場を望む
2016年08月06日(土) No.565 (快調::一般)
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◆\鏝綫犬泙譴了笋僚戦(戦後の70年間)


 筆者の過ごしてきた今日まで、戦後70年間を振り返ったとき、正にこの「地水火風空」に当てはまることのできる大地震・巨大津波・大水害・大型台風・原発事故・航空機事故・戦争・地域紛争・テロなど様々な天災人災が発生し、その事件のタイトルの前には「過って経験したことのない」という前文が加えられることが多かった。さらに残念なことに、先日、障害者福祉施設で戦後最大の大量殺人事件(死者19名・重軽傷者26名)が発生し、障害者を守り切れず、痛ましく日本国に不名誉な汚点を残した。

 更に朝刊見出しを下に移すと「71回目の原爆の日」平和記念公園で記念式典が開かれることが報じられている。殊に今年はオバマ米大統領が5月末に広島に訪れた際、各国指導者連帯を呼びかけた「核兵器のない世界を追求する勇気」の重要性に触れた演説。この情熱に後押しされたかの様に広島市長は平和宣言の中に核兵器を【絶対悪】と呼び【私自身の国と同様、核を保有する国々は、恐怖の論理から逃れ、核兵器のない世界を追求する勇気を持たねばならない】としたオバマ大統領の演説を引用した。
日本政府にも「核なき世界は、憲法が掲げる崇高な平和主義を体言する世界」として、核兵器禁止の法的枠組みの議論を主導するよう求めて行く。

【写真】 明治時代の神戸港 
【写真】 神戸港より神戸の夜景を望む
2016年08月06日(土) No.564 (快調::一般)
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 \鏝綫犬泙譴了笋僚戦


 毎年8月に入り終戦記念日が近づいてくると、新聞、TVが特集記事・番組・記録映像、映画が多くなってくる。終戦の決断から御前会議でポツダム宣言受諾へ そして「堪え難きを堪え…」と。玉音放送が流れ皇居の前でお言葉に平伏し拝聴する国民が映し出される。これらの報や映像に接する度に平和とは何かを考え、繰り返されることのない未来を作って行くひとりでありたいと願う。

 さて、8月6日(土)は広島に原爆が投下された日ですが、今年の同日の主要紙の朝刊一面を開いてみよう。見出しには「北朝鮮ミサイル移動発射に備え、常時破壊処置命令へ」と、きな臭い文字が踊る。 その横には「リオ五輪きょう開幕」この両岸に対峙する2つのタイトルを並べた時、筆者は江戸時代の剣豪宮本武蔵の著した兵法書【五輪書】を思い浮かべてしまった。ただ、五輪書を連想したからといってもそれぞれに関連はない、オリンピックを「五輪」と表したのも、某新聞社の某記者が新聞タイトルで「オリンピック5輪旗」の文字数を減らしたいが為の策であり、その後、マスコミに普及したようだ。
そして【破壊処置命令】については、その“五輪の書”に書かれている兵法が頭によぎったからである。
(脚注:兵法とは「地」「水」「火」「風」「空」の5巻より成り、寛永 20 (1643) 年,60歳のときのもの。武蔵が会得した兵法の技術のみならず,その兵法のうちに貫流しているきびしい心構えをも記す)
2016年08月06日(土) No.563 (快調::一般)
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